12 光源氏、空蝉の寝所へ忍び込む
さて、いよいよ光源氏が女たちの休んでいる寝所へ忍び込んで、人妻である空蝉を盗み出すシーンです。この場面は面白いのでゆっくり読んでみましょう。
空蝉が「中将の君はどこにいるのかしら。人気がない気がして、なんだか怖いわ」と言う。「中将の君」というのは空蝉に仕える女房の名前です。みんなが寝静まった気配なので、源氏は襖の掛金を引き上げてみると、向こうからは鍵がかけてない。しめしめと思って入っていくと、暗がりのなかに小柄な女が一人で寝ています。源氏は女が被っている着物をそっと押しのけて、「中将をお呼びでしたからわたしが参りましたよ」と言います。源氏もこのときの身分は近衛の中将だから、空蝉の言葉を自分を呼んだものと曲解したわけです。若いのにこの余裕。やるなあ。
女はとても小柄なので、抱き上げて部屋を出ようとするところへ、湯を使っていたらしい中将の君が帰って来ます。出会いがしらだったので源氏はつい声を上げてしまいます。その声を怪しんで女房が手探りで寄って来る。それほど家のなかは暗いのでしょう。顔は見えないけれど、焚きしめた香の薫りから源氏であることを悟ります。しかし相手が相手だけに声をかけることもできない。どうしようかと思っているうちに、源氏は空蝉を抱いたまま自分の寝所へ入っていってしまいます。襖を閉め切ってから、「暁に御迎へにものせよ」とのたまう。くう~、たまらん。
ちなみに源氏の台詞、各種現代語訳では以下のようになっていいます。「夜明けにお迎えに来るがいい」(与謝野晶子訳)。「明け方お迎えに参るがよい」(谷崎潤一郎訳)。「朝になってから、お迎えに参れ」(円地文子訳)。「明け方お迎えに来なさい」(瀬戸内寂聴訳)。「夜が明ける頃、迎えにきなさい」(角田光代訳)。まあ、短い台詞だからそんなに違わないんだけど、こういう緊迫した場面は、やっぱり切れのいい原文で読みたいですね。
それにしても齢16の光源氏。怖いもの知らずというよりも、とんでもない不良少年ではないか。いったい平安時代の風紀はどうなっていたのか。われわれのご祖先たちのことでもあり、ちょっと心配になってきます。
さて、家の奥に設えられた寝所で源氏と空蝉は二人きりになりました。空蝉が言います。「こんなこと、とても現実とは思えません。人数ならぬ身とはいえ、このような扱いを受けるおぼえはありません。わたしのような身分の者にも、相応の生き方があるのです。」すると源氏。「あなたのおっしゃる身分というものを、わたしはまだよく知らない初心な者なんですよ。こんなことははじめての経験なんです。それを世間並みの浮気者のように言われるのはあんまりだ。」
女は源氏のたぐいまれな美しい容姿を目にするにつけ、この人に身も心も許してしまうことがいっそうみじめに思われ、ここはなんとしても貞操を守り通そうと思います。源氏は「どうしてわたしをそんなにお嫌いになるのですか。この思いがけない逢瀬こそが、前世からの深い因縁によるものとお思いになりませんか。」などと虫のいいことを言っている。つづく空蝉の台詞。
「いとかくうき身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、あるまじきわが頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを、いとかう仮なるうき寝のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへまどはるるなり。よし、今は見きとなかけそ」とて、思へるさまげにいとことわりなり。
空蝉の夫・紀伊守は受領階級です。現在の県知事みたいなものですから、そんなに低い身分というわけでもないのですが、彼女の亡くなった父は衛門督(衛門府の長官)で、彼女自身がかつては帝に「宮仕えに出ないか」と勧められたほどの女性でした。そのことをふまえて「ありしながらの身にて」と言っているのでしょう。「未婚のころなら、あなたの御心にお応えしたかもしれません。たとえ身の程知らずのうぬぼれでも、いつかはわたしという女を本気で愛してもらえるかもしれない、そう思って慰めともしましょう。しかし年老いた受領の後妻となったいまは、一夜のはかない情事の相手でしかありません。せめてわたしとお会いになったことは口外なさらないでください。」
空蝉の置かれた境遇に、作者が共感しながら書いていることがわかります。「いとことわりなり」と語り手は述べています。「なるほど無理もないことだ」と思っているのは作者自身でしょう。そこには一人の女として、ここでの源氏の振る舞いは受け入れがたい、といったニュアンスがにじみます。ちなみに紫式部の父親・藤原為時は受領階級ですから、彼女自身がまさに中の品の女だったわけですね。
このあと一夜の契りを結んで夜が明けます。女の述懐がまた生々しい。「常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊予の方のみ思ひやられて、夢にや見ゆらむとそら恐ろしくつつまし。」いつもは野暮で嫌いだとさげすんでいる年老いた夫のことばかりが気になり、もしかしたら昨夜のことを夫が夢に見はしなかったかと、そら恐ろしく身がすくむ思いをしている……。どうでしょう、ちょっと鬼気迫るものがありませんか? 作者の筆の冴えというか、読んでいて凄みさえ感じます。