15 怪異に支配された街
平安京は長安をモデルに設計された、当時の最先端都市です。「近代」都市と言ってもいいでしょう。ご承知のように条坊制によって合理的にデザインされています。その京の都はまた、さまざまな怪異に支配された街でもありました。
「鬼」という字は普通「オニ」と読みますが、「九鬼文書(くかみもんじょ)」のように「カミ」と読む場合もあるようです。また「モノ」と読むこともありました。こちらは物の怪の「モノ」でしょう。「隠(おぬ)」が訛ったものという説も多くみられます。この場合は「隠れたもの」や「目に見えないもの」といった意味でしょう。
何が隠れているのか? 死霊、生霊、地縛霊など多岐にわたります。そうした目に見えない超自然的存在を人々は身近に感じ、リアルに怖れながら暮らしていました。たとえば雷に打たれたりして人が不慮の死を遂げる。すると事故現場は地縛霊の憑く悪所となります。家に住み着いた霊鬼は家霊と呼ばれました。源氏が夕顔を連れ込んだ廃墟も、そうした場所だったのかもしれませんね。
静かな夕暮れ、女は荒れ果てた邸の暗さを気味悪がっています。やさしい源氏は女に添い寝してやります。しかし情事も一昼夜となると、さすがに男は疲れています。女が感じている「鬼」の存在には気がつかない。その思いは千々に乱れ、いまごろ自分を探しまわっているだろう帝のことや、等閑にしている六条の御息所のことなどをぼんやりと考えています。
宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上にいとをかしげなる女ゐて、「おのが、いとめでたしと見たてたてまつるをば、尋ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」とて、この御かたはらの人をかき起こさむとすと見たまふ。物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、灯も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。
午後10時ごろでしょうか、男が少しうとうとしていると、枕元にぞっとするほど美しい女が坐っている。「あなたを心からお慕いしているわたしを捨て置かれ、こんなつまらない女を連れ歩いてご寵愛になるなんてあんまりだ。口惜しく心外で辛いことです」と言って、傍らに寝ている女に手をかけ、引き起こそうとする。夢なのか現実なのかわからない。夢うつつの状態と読めます。ものに襲われた気がして、はっと目を覚ますと明かりが消えている。気味が悪いので、太刀を引き抜いて魔除けのために置き、夕顔の侍女である右近を起こします。
物の怪に取り憑かれた夕顔は怯えきって意識を失っています。助けを求め家中を右往左往して戻ってみると、すでに女は息絶えている。源氏は恐怖と悲しみに打ちひしがれます。このあたりはほとんどゴシック・ロマンスを想わせる筆致です。当時、物の怪などによる病人は、加持祈祷に頼ることが多かったようですが、この状況では法師などを呼ぶことはできません。どうしていいかわからない源氏は、使いをやって腹心の惟光を呼びます。
この男、なかなか有能で、光源氏の尻ぬぐいみたいなことをよくやっています。ぼくは『ゴッド・ファーザー』でロバート・デュバルが演じたトム・ヘイゲンを想い浮べてしまいます。ここでも彼は女の遺体を秘密裏に運び出し、東山の庵に移すことに成功します。まるでアメリカの政治家や富豪のスキャンダルみたいですね。
源氏は茫然自失の態で二条院に戻りますが、惟光とは対照的にめそめそしている。おまけに頭の中将たちからいろいろ詮索されて苦しい言い訳などしています。
そこへ惟光がやって来て事の顛末を報告します。「やっぱりだめだったか?」と源氏がたずねると、「たしかにお亡くなりになっていました」と惟光は答えます。
こんなふうに『源氏物語』では、人の死はしばしばあやふやです。紫の上みたいに、一度死んだと思っていた人が加持祈祷で生き返ったりする。(「若菜」下)現在の常識とはずいぶん違う感じですね。惟光から葬儀の段取りなど聞くうちに、源氏は荼毘に付す前にどうしても夕顔の亡骸を一目見たいと言い出します。惟光は「滅相もない」と引き止めますが、それを振り切って馬で東山に出かけてしまう。ところが帰りに落馬して、そのまま衰弱がひどくなります。なんとか回復した源氏は、夕顔の侍女・右近を引き取ります。
その右近が女の素性を打ち明けます。夕顔は源氏の義兄にあたる頭中将の元愛人で、子までなした(のちに「玉鬘」として登場)にもかかわらず、中将の妻の脅迫まがいの仕打ちを逃れて仮住まいをしていたのでした。歳は19といいます。源氏は比叡山で夕顔の四十九日の法要を営みます。いまでも四十九日の法要は忌中の儀式のなかでは重要なものとされていますね。仏教ではこの日を忌明けと呼んだりします。亡くなった人の魂は四十九日までは、来世での生が定まらず中有(中陰)をさまよっているそうです。