帖は「若紫」に入ります。18歳の源氏は病気です。「瘧病(わらはやみ)」とあります。マラリアみたいなものだったようです。源氏は北山の寺にいる行者のところへ治療に通います。そこで幼女といっていい若紫(のちの紫の上)を見初める。「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠の中に籠めたりつるものを」(雀の子を召使の犬君が逃がしちゃったの。ちゃんと籠のなかに入れておいたのに)と悔しがっている様子が愛らしいですね。ちなみに「犬君」は若紫に仕える女童の名前でワンちゃんではありません。

 若紫の父は兵部卿宮で藤壺の兄です。つまり若紫は源氏が眷恋する藤壺の姪ということになります。そんなこともあって、源氏はなんとしてもこの子を引き取って将来は妻にしたいと思います。善は急げとばかり、しかるべき筋と交渉するがはかばかしい返事はもらえない。そりゃそうでしょう、相手はまだ10歳ですからね。
まあ、源氏のほうも18歳だけど。

 そうこうしているうちに藤壺の女御が病気になって里に下ります。このように宮中の女性は病気や出産のときには実家に帰るのが基本でした。天皇のいる内裏に穢れを持ち込まないためですね。父の帝(桐壺帝)は心配しきりですが、息子の源氏としてはチャンス到来。藤壺の侍女(王命婦)に早く手引きをしろと催促します。
そのあとが問題の箇所です。

 いかがたばかりけむ、いとわりなくて見たてまつるほどに、現とはおぼえぬぞわびしきや。宮もあさましかりしを思し出づるだに、世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむ、と深う思したるに、いとうくて、いみじき御気色なるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず、心深う恥づかしげなる御もてなしなどの、なほ人に似させたまはぬを、などかなのめなることだにうちまじりたまはざりけむ、と、つらうさへぞ思さるる。

 ここはどの訳者も苦労しています。丁寧に訳そうとするほどぎくしゃくした文章になるんですね。円地文子は説明を補い過ぎてごてごてした感じになっている。瀬戸内の訳はわかりやすいけれど散文的で雰囲気がない。与謝野晶子の訳も無骨で良くないなあ。いちばんうまく訳しているのは谷崎かもしれません。細部に拘泥せずにさらりと訳すほうがいいのかなあ。以下に掲げるのはその谷崎訳です。旧仮名は現代仮名遣いに直しています。

〈どのように計らったことなのか、たいそう無理な首尾をしてようようお逢いになるのでしたが、その間でさえ現とは思えぬ苦しさです。宮も、浅ましかったいつぞやのことをお思い出しになるだけでも、生涯のおん物思いの種なので、せめてはあれきりで止めにしようと、固く心をおきめになっていらっしゃいましたのに、また此のようになったことがたいそう情けなく、遣る瀬なさそうな御様子をしていらっしゃるのですが、やさしく愛らしく、といって打ち解けるでもなく、奥床しゅう恥かしそうにしていらっしゃるおん嗜みなどの、やはり似るものもなくていらっしゃいますのを、どうしてこうも欠点がおありにならないのだろうかと、君は却って恨めしいまでにお思いになります。〉

 無理な算段をして逢ってみたが、これが現実のこととは思えなくて残念である、というのは源氏の独白です。一方、藤壺のほうは「思いもよらなかったあの夜のことを思い出すだけで呵責をおぼえ、もう同じ過ちは繰り返すまいと固く心に誓っていたのに、再びこんなことになってしまったことが情けない」と後悔しています。ということは、すでに一度目の密会があったことになります。たんに言い寄られただけという説もあるようですが、それはないと思うなあ。

 情けないと思いながらも、藤壺は源氏にたいして、やさしく情のこもった愛らしさを示します。とはいえあまり馴れ馴れしく打ち解けた様子は見せない。どこまでも奥ゆかしく、優雅な物腰などはやはり他の女性とは比べようもない。どうしてこの人は、こちらが物足りなく思うようなわずかな欠点さえも混じっていないのだろう、と源氏はかえって恨めしく思います。

 病気療養に行った先で若紫を所望するかと思えば、里帰りしている藤壺と首尾よく密通を果たす、なんか光源氏って性的に落ち着きのないやつだなあ、と思われるかもしれませんが、実際はいろんなやりとりがあり、歌の贈答なども織り交ぜながら話は進んで行きますので、それほどバタバタした印象はありません。

 ただ、あらためて読むと、愛らしい若紫がよく書けているのにくらべて、藤壺との密会の場面は、ちょっと流れが悪いというか、文章が固いようにも感じられますね。

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投稿者: 片山 恭一

ぼくらラボ設立者 小説家。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。2001年4月に出版された「世界の中心で、愛をさけぶ」が若者から圧倒的な支持を得、文芸書としては異例のロングセラーとなる。

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