27 葵の上の出産と死
物の怪に苦しめられながらも、葵の上はなんとか無事に男児(夕霧)を出産します。その様子を聞くにつけても、六条御息所は平静な気持ちでいられません。自分が執着する男(源氏)が、別の女の子どもを産んだことが妬ましくて素直に受け入れられないのです。
かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。かねてはいとあやふく聞こえしを、たひらかにもはた、とうち思しけり。あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣などもただ芥子の香にしみかへりたる、あやしさに、御泔参り、御衣着かへなどしたまひて試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだにうとましう思さるるに、まして人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変りもまさりゆく。(「葵」)
魂が抜けだしていくような心地がして、しばしぼんやりしている。ふと気がつくと、御息所の着物に祈祷の護摩に焚く芥子の匂いが染み込んでいる。不審に思い、髪を洗い、着物も替えるが匂いは消えない。わがことながら、いかにも気味が悪い。こんなことはとても人には話せない。胸に秘めて思い嘆いているうちにも錯乱は深まる。
まさに読んでいて鬼気迫る思いがします。御息所が精神に変調をきたしそうになるのも無理はない。芥子の匂いは、彼女の生霊が葵の上にとり憑いて調伏の修法を受けたことを証明するものです。しかも匂いは身体に染み付いている。この身が葵の上のもとへ行ったことは明白である。わが身のあさましさをつくづく持て余している、という感じでしょうか。
この場面は本当に見事で、ポーあたりが書きそうな怪奇小説を読んでいるみたいです。近代のゴシック・ロマンにも通じ、平安時代の女性が書いたとはにわかに信じがたい。語り手はまず葵の上が産気づいて苦しんでいるところ、祈祷で物の怪を調伏する場面について物語ります。とりあえず男の子を無事に出産したところで場面が変わり、今度は六条御息所の着物に芥子の匂いが染み込んでいたというエピソードが語られます。場面の転換、構成が見事です。
もう一つ感心するのは、物の怪の場面は詳細に書き込んでいるのに、葵の上が亡くなるシーンはごくあっさり済ませている点です。邸内がひっそりしているあいだに、女君は急に苦しみはじめる。以前のように胸を詰まらせて苦悶している。「内裏に御消息聞こえたまふほどもなく絶え入りたまひぬ」(宮中にいる人たちに知らせる間もなく亡くなった)と、これだけです。葵の死をあっさり書くことで、かえって物の怪の不気味さが余韻となって残る。う~ん、憎い趣向だなあ。
葵の上が亡くなり、みんなが嘆き悲しんでいます。とくに左大臣家の悲しみは深い。ここで先に見た源氏の歌が出てきます。
限りあれば薄墨ごろもあさけれど 涙ぞそでをふちとなしける(源氏)
葵の上を哀悼した歌ですね。すでに見たように、喪服は色の濃淡によって故人との関係や志をあらわしました。妻の死は「軽服(きょうぶく・遠縁の者の死)」とされ、服喪の期間は短く、身に着ける喪服の色も薄い。それにたいして夫の死は「重服(じゅうぶく)」で、喪に服する期間は長く(通常は一年間)、喪服には濃い色を用います。源氏の歌は、「妻のための喪服の色は薄く、志も浅いようだが、それはきまりだから仕方がないことで、わたしの悲しみは涙で薄墨色の服の袖を藤色に染めてしまうほど深いのですよ(ふちは藤と淵を掛ける)」という意味になります。
考えようによっては、正妻(葵の上)が愛人(六条御息所)の生霊によって亡くなったようなものですからね。ここは源氏としても誠意のあるところを見せなければ、今度は葵の上が死霊となって源氏に祟るかもしれません。まあ、そういう打算があったとは思えませんが、ともかく葵の上は往生したのか、悪霊になったりすることはありませんでした。
娘を亡くした父・左大臣の悲しみが深いのはもちろんですが、侍女たちも主の死を悼んでいる。「女房三十人ばかりおしこりて、濃き薄き鈍色どもを着つつ、みないみじう心細げにてうちしほたれつつゐ集まりたる」とあります。葵の上くらいの女性になると、三十人~四十人くらいの女たちが侍していたらしい。みな喪服を着ています。
女房たちが悲しんでいるのは、正妻の死をきっかけに、源氏が左大臣家に寄り付かなくなることを案じているからでもあるでしょう。もともと源氏と葵の上は折り合いのよくない夫婦でした。そのため源氏が左大臣家を訪れることも少なく、舅はしばしば気をもんだのだったのです。葵の上が亡くなってしまえば、源氏はますます訪ねてこなくなるだろう。それは左大臣家の衰退にもつながりかねない。左大臣は「お見捨てになれない子(遺児・夕霧のこと)もいることだし、何かの折にはお立ち寄りになるだろう」と言って女房たちを慰めていますが、実際に時間の経過とともに源氏の足は左大臣家から遠のいていきます。
Twitter