光源氏、危険な情事に深入りしていく(32回)
政敵とも言える右大臣家の人たちが朝廷を牛耳るなか、眷恋の情を抱きつづけた藤壺にも出家され、源氏の心はすさんでいます。そこに薄い月の明りが差し込んでくる。薄明りの主、朧月夜は弘徽殿大后の妹(右大臣の六女)ですから、絶対につき合ってはいけない相手です。
もともと朧月夜は、源氏の兄・朱雀帝が東宮だったころから妃候補だった人です。彼が即位したあとは、尚侍(ないしのかみ)として現帝の寵愛を受けている。源氏としては自ら地雷原に突っ込んでいくようなものです。だから余計に燃えたのでしょうか。いささか自暴自棄になっていたのかもしれません。それにしても弘徽殿大后は、自分の妹を息子(朱雀帝)の妻にしようとするんだから、完全な近親婚ですね。
二人が最初に出会ったのは、内裏で催された桜の宴のときでした(「花宴」)。当時20歳の源氏は、藤壺に会えないかなあと、ほろ酔い加減で後宮をうろついています。しかしそこは藤壺、局の戸締りはしっかりして侵入の隙を与えない。一方の朧月夜のところは戸が少し開いていました。押すと戸は簡単に開いた。この姫君、ちょっと軽率というか、だらしないところがあったようです。「世の中のあやまちというのは、こういうふうにして起こってしまうものだなあ」などと呑気なことを言いながら、期待どおりのことが起こってしまう。
以来、二人は手紙のやり取りをつづけています。これだけでも相当危険なことです。なにしろ帝の妃になろうかという身ですからね。ここで皇の婚姻関係について、いま一度見ておきましょう。まず正妻が皇后。これはいまでも「天皇皇后両陛下」として使われています。ややこしいのが中宮です。中宮は皇后の住まいのこと(皇太子の居所を「東宮」や「春宮」というのと同じ)ですから、元来は皇后=中宮でよかった。ところが藤原道隆・道長兄弟のとき、自分の娘を天皇の后にするために、無理やり皇后と中宮を分離させた。以来、中宮は「もう一人の正妻」みたいな位置づけになったようです。
皇后(中宮)の下に女御と更衣がいます。いわゆる側室ですね。天皇の奥さんですが正室ではない。通常、女御は皇族か摂政関白ないし大臣家の娘がなります。更衣は大納言以下の家の娘。『源氏物語』のころの官位を見ると、朝廷のトップが太政大臣(源氏が33歳のときに昇り詰める地位)、その下に右大臣、左大臣、内大臣がいて、さらに大納言となります。
すでに見たように、桐壷帝が溺愛した桐壷更衣は大納言家の生まれなので「更衣」です。一方、北の方の弘徽殿は右大臣の娘だから「女御」と呼ばれています。そして藤壺女御が中宮になったあとで、東宮(のちの朱雀帝)の母親である弘徽殿は皇后(大后)になります。いずれにしても、女御も更衣も実質的に天皇の妻ですから、こういう人たちと関係をもつと大変、死罪にも値する叛逆ということになるでしょう(光源氏と藤壺の場合が、まさにこれだったわけです)。
朧月夜の「尚侍」という待遇は、ちょっと微妙でわかりにくいところがあります。表向きは後宮の女官ですが、日常的に天皇のそばで親しく仕えていることから、実質的には后妃的な存在だったようです。つまり源氏としては、女官の一人に手を出すような軽い気分だったのかもしれませんが、現帝である朱雀帝(源氏の兄、母親は弘徽殿大后)の寵愛を受けているわけですから、どう見ても危険な情事としか言いようがありません。
舞台は朧月夜が病気療養のために里帰りしている右大臣邸です。この時点で、最初の出会い(「花宴」)から四年ほど経っています。病気のほうはほどなく快癒しますが、この機会に二人は密会を重ねます。源氏も源氏ですが、姫君にも困ったものですね。このときの源氏の心理はどういうものなんでしょう? 藤壺に出家されて自暴自棄になっていたってことはあるでしょう。
同時に藤壺とのあいだに不義の子をもうけ、挙句の果てに彼女を出家までさせてしまった。そのことにたいする自責の念というか、自己処罰の衝動みたいなものもあったかもしれませんね。藤壺に出家され、本当は自分も出家したかったのかもしれません。しかし紫の上のことを思うとそうもいかない。どうしていいかわからない源氏、半ば自殺に近い気持ちだったのではないか。
大臣家の者たちは源氏が通ってきていることを知っています。ただ事を荒立てたくないので、右大臣にも大后にも黙っています。事件は雷の鳴る嵐の夜に起こりました。女の部屋にいる源氏は帰るに帰れなくなってしまいます。夜が明けて、父の右大臣が「いやあ、ひどい雷だったなあ」と言って娘の部屋を覗きにきます。この父、娘同様ちょっと軽率なところがあります。いくら父親とはいえ、早朝から娘の寝所へ入り込んだりするものではないでしょうに。一応、帝の寵愛を受けている女性ですしね。
だが、ここでは男親の軽率さが幸いして(源氏にしてみれば災いした、と言うべきか)、娘がうっかり引きずってきた男物も帯を見つけてしまいます。部屋のなかには男手とおぼしき懐紙も散らばっている。やや、これはいったいどうしたことか? あわてふためいた様子でなかを覗き込むと……。
いといたうなよびて、つつましからず添ひ臥したる男もあり。今ぞやをら顔ひき隠して、とかう紛らわす。(「賢木」)
こういう光源氏って好きだなあ。源氏はぐったりして物に寄り掛かって寝てます。いまさらながら顔を隠したり、取り繕ったりしながらも、現場を押さえられたにしては慌てません。しかも相手は女の父親ですからね。普通だったらきまり悪いというか、死んだふりでもするしかないところです。そこは源氏、さすがに百戦錬磨というか、やれやれという感じで、顔を隠したり、とりつくろったりしています。右大臣から見ればふてぶてしい。
事の顛末を、右大臣は后の弘徽殿に話してしまいます。大后のほうは黙っていられません。もともと激しい気性の上に、源氏を蛇蝎のごとく嫌っていますからね。
忌々しいったらありゃしない。大后の激昂ぶりを見て、右大臣のほうは「言うんじゃなかった」と後悔しています。大后のほうは、少し冷静になったところで、ここは憎き源氏を失脚させる絶好の機会とばかり、策をめぐらせはじめます。
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