「若紫」の軸になるのは、光源氏が若紫を見初めて略奪するまでの経緯です。そのあいだに藤壺との二度目の密会が置かれます。「紫のゆかり」であるこの二人が、光源氏にとってもっとも重要な女性であることは言うまでもありません。

 病気の治療のため北山の行者のところへ通う道すがら若紫を見出した源氏は、幼女の面倒を見ている僧都と尼君(若紫の祖母にあたる)に「自分に世話をさせてくれ」と申し出ます。原文では「後見(うしろみ)」とあります。世話をする人という意味ですが、平安時代の習慣では、女性のうしろみになるということは、その人の夫になることを意味していました。源氏の真意は、幼女を引き取って理想の女性に育てたいということですが、先方は源氏が若紫の歳を知らずに結婚を申し入れていると受け取ります。このとき若紫は10歳ですから、常識的に考えても年齢が釣り合わないと断りつづけます。

 そうこうしているうちに尼君が亡くなり、若紫は寄る辺のない身となります。先に述べたように、若紫の父は藤壺の実兄にあたる兵部卿です。兵部卿には北の方がいるので、側室の娘である若紫を手元において育てにくかったのでしょうが、世話をする人がいなくなってはそう言ってもいられません。自分が引き取ろうということになります。

 話は早々源氏の耳に入ります。藤壺に容姿が似ているばかりでなく、彼女の姪にあたる若紫を、源氏はなんとしても手元に置きたいと思っています。しかし父・兵部卿のもとに行ってしまっては手遅れです。その前に秘密裏に自分の邸(二条院)に連れてきてしまおうと考えます。

 君は、何心もなく寝たまへるを、抱きおどろかしたまふうに、おどろきて、宮の御迎へにおはしたる、と寝おびれて思したり。御髪掻きつくろひなどしたまひて、「いざたまへ。宮の御使にて参り来つるぞ」とのたまふに、あらざりけり、とあきれて、おそろしと思ひたれば、「あな心う。まろも同じ人ぞ」とて、かき抱きて出でたまへば、大夫少納など、「こはいかに」と聞こゆ。

 例によって源氏は大胆な行動に出ます。ちょっとユーモラスなところなので、丁寧に読んでみましょう。夜更けに惟光一人を従えて邸を訪れた源氏は、少納言の制止を振り切ってずんずん奥へ入っていき、寝ている若紫を抱き上げます。若紫のほうは寝ぼけているので、父の兵部卿が迎えにきたのだと思います。その髪を撫でつけるなどしながら、「さあいらっしゃい。父宮のお使いで参りましたよ」という源氏の言葉を聞いて、はじめて相手が父宮ではなかったと気づき、驚くとともに怯えます。「あな心う。まろも同じ人ぞ」は光源氏の台詞、「なんと情けない。わたしも父宮も同じですよ」くらいの意味でしょうか。「まろ」は「麻呂」とか「麿」とか書きますね。ここでは一人称の代名詞です。

 細かいことですが、最初の「君」を若紫ととるか源氏ととるか二説あって、与謝野晶子と小学館の校訂者は「源氏の君は」と訳している。谷崎訳、円地訳、瀬戸内訳では「姫君は」となっている。前者では「源氏の君は、女君が無心に寝ていらっしゃるのを」という意味になります。後者だと、「姫君は何も知らずに寝ていらっしゃるのを」(瀬戸内訳)となります。こういう箇所が『源氏物語』には多々あるのですね。

 現代社会のモラルからいうと、光源氏の行動は少女誘拐であり完全な犯罪ですよね。しかし誰も『源氏物語』を犯罪小説とか悪漢小説としては読みません。それはぼくたちがドストエフスキーの『罪と罰』を犯罪小説として読まないのと同じでしょう。当時からそうだったのだと思います。宮中の女房たちは光源氏を悪者や不良とはとらえずに、むしろヒーローの活躍に胸躍らせるようにして読んでいたのではないでしょうか。

 なぜでしょう? 彼が帝(天皇)に準ずる者だからだと思います。古代の天皇(天子)は女たちの呪力によって国を治めました。女たちを手に入れるために、略奪まがいのことが是とされる時代があったのかもしれません。『源氏物語』が書かれたころになっても、国の長には多くのすぐれた女たちを妻や妾にする魅力が求められたのでしょう。光源氏はそれを如実に体現した主人公だったと言えます。

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投稿者: 片山 恭一

ぼくらラボ設立者 小説家。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。2001年4月に出版された「世界の中心で、愛をさけぶ」が若者から圧倒的な支持を得、文芸書としては異例のロングセラーとなる。

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