今年はみなさんと一緒に『源氏物語』を読んでいこうと思います。といっても、特別な趣向があるわけではありません。ただ漫然と、といいますか、最初の巻(帖)から順番に読んでいくというだけの話です。そもそも、ぼく自身がこの作品にかんしては初心者と言っていいくらいで、はじめて読む方とそんなに変わらないんです。通読したのは、若いころに一度だけ。谷崎潤一郎の現代語訳でした。うちの奥さんの嫁入り道具の一つだったんですね。それを読んだんです。とくに気にいったとか、感動したとか、そういうのはなくて、「まあ、こんなものか」と思った程度です。

 その後は、必要があるたびに、ちょこちょこっと拾い読みをするくらいで、本格的に取り組んだ、ということはないんです。だからまあ、素人ですね。専門的な解説をしたり、蘊蓄を傾けたりといったことはできませんので、あらかじめご了承ください。むしろこれから、みなさんと一緒に読んでいきたいという気持ちです。全部読めるかどうかわかりません。たぶん読めないでしょう。飽きたらやめます。このあたりは無理をせずに、いい加減にやっていきたいと思います。

 いい加減といえば、退屈なところはどんどん飛ばしちゃいます。だいたいが『源氏物語』って、全般的に退屈なんです。このことは、まず声を大にして言っておきたいと思います。研究者はともかく、普通の読者は、隅から隅まで読むようなものでは決してないと思います。気に入ったところだけをつまみ食いするくらいでいいんじゃないでしょうか。

 やはり長大な小説に、プルーストの『失われた時を求めて』というのがあります。あれも退屈です。でも、『源氏物語』の退屈さは、それとはちょっと違う気がします。プルーストの場合は、端的に面白くない。ドラマがない、刺激がない。暇を持て余した金持ち連中が、飲んだり食べたりしながら、どうでもいいようなことを延々と議論する。あるいは語り手が、些細なことをうじうじと考察する。そういう小説です。「だからどうした!」というような退屈さです。

一方、『源氏物語』は、それなりにドラマがあります。なにしろ「姦通小説」ですからね。不倫。ご婦人をたぶらかしたり、幼女を凌辱したり、といったお話です。現在でいえば総理大臣みたいな地位にある人が、そういうことをやってしまうわけです。これはもう、面白くないはずがない。さらに物の怪とか祟りとか、オカルト系の話題も満載です。姦通小説にして怪奇小説でもある。エンタメとしては、もう、こわいものなしです。

でも、退屈なんです。この退屈さは、おそらく繰り返しの多さからきていると思います。主人公の光源氏を中心として、登場人物が同じことを何度も繰り返すわけです。一人の女の人に飽きたら、また別の人に付文をして、みたいな……。進歩がない、成長がない。進歩も成長もないままに、登場人物たちは一人、また一人と物語から去っていきます。「もののあはれ」なのかもしれませんが、現代のぼくたちからすれば、どうしても「退屈じゃあ~」と感じてしまします。だったら退屈なとこは飛ばして、面白いとこだけ読んでいけばいいじゃないか。そういう方針で取り組みたいと思います。普通の人の読み方としては、それでいいと思うんです。

ただ、ひとつの工夫として、大事なところはできるだけ原文を参照していこうと思います。いま、手元に五種類ほどの現代語訳があります。古いほうから、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴、角田光代ということになります。これらを読みくらべるのも面白いのですが、やっぱり原文のもつ調べといいますか、文体やリズムに触れてみたい。

現代語訳というのは、新しくなるほど説明的になる傾向があるんです。なぜかというと、ぼくも過去に何度か大学で『源氏物語』の話をしたことがあるので、実感としてよくわかるのですが、いまの学生さんたちに読んでもらおうとすると、たとえば谷崎訳でも「古い」気がするんです。「古い」というのは、難しいということでもあります。谷崎が使っている言葉自体が、いまの若い人たちにはなじみがなく、半分、古文みたいな感じがすると思うんです。

たとえば「葵」の巻で、光源氏に処女を奪われた紫の上が述懐するところがあります。谷崎訳では

「こういうお心がおありになるとは夢にもおもっていらっしゃいませんでしたので、こんな嫌らしい御料簡のお方を、どうして心底からお頼み申し上げていたのであろうと、情けなくお思いになります。」

となっています。一方、新しい角田訳では、

「光君が、あんなことをするような心を持っていると紫の女君は今まで思いもしなかった。あんないやらしいことをする人をどうして疑うことなく信じ切っていたのかと、情けない気持ちでいっぱいになる。」

となります。

一読しておわかりのように、角田訳では敬語を訳していません。それから「光君」「紫の女君」というように、いちいち主語を補っています。文章も読みやすいように区切っている。そのため谷崎訳にくらべて、即物的というか、ぶっきら棒な印象を受けます。親切といえば親切で、誰が読んでも誤解しようのない文章になっている。別の言い方をすると、ちょっと幼稚な感じもします。いくらなんでも、そこまでやる必要はないんじゃないの、といったところです。

参考までに原文は、

「かかるおん心おわすらむとはかけても思し寄らざりしかば、などてかう心うかりける御心をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむ、とあさましう思さる。」

となっています。なんとなく奥ゆかしくて、いい感じでしょう? これまで「幼女」であった紫の上が、父親のように慕っていた光源氏によって「女」にされてしまう、その動揺というか、悔しさというか、厭わしさみたいなものが、ひと刷毛でさらりと描かれている印象です。こういうところを、みなさんと一緒に味わっていきたいと思っています。

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投稿者: 片山 恭一

ぼくらラボ設立者 小説家。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。2001年4月に出版された「世界の中心で、愛をさけぶ」が若者から圧倒的な支持を得、文芸書としては異例のロングセラーとなる。

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1件のコメント

  1. 与謝野晶子訳を読んでいきたいと思います。原文の調べは美しくて心地良いですね。随分前ですが田辺聖子訳の「新源氏物語」を途中で断念しましたので、先生のブログを拝読しながら、最後まで読みたいと思います。

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