光源氏の奥さん、正妻は二人です。一人は葵の上、もう一人は女三の宮です。光源氏がいちばん心を通わせ、愛したはずの紫の上は正妻ではありません。世間的には側室、妾という立場でした。後ろ盾もなく、天涯孤独だった娘を、源氏が引き取って育てたわけですね。

 葵の上との結婚は源氏が12歳のときですから、まだ右も左もわからない子どもと言ってもいいでしょう。当時の結婚のほとんどは親がきめるものだったようです。本人たちの意志は重んじられませんでした。自由恋愛というのは、とくに女性の場合は好ましくないと考えられていた。儒教の影響が強かったのかもしれません。

 もう一人の相手、女三の宮との結婚は、光源氏が40歳のときです。当時の感覚からすると、ほとんど老人に近い年齢だったかもしれません。源氏の邸である六条院では「四十の賀」という祝宴が催されています。いまの還暦みたいなものでしょうか? そのころ源氏の異母兄である朱雀帝は病気がちになって、出家の志を実現したいと思っています。でも自分がいなくなったあと、頼る人がいなくなる愛娘(女三の宮)をどうしたものか、と思い悩んでいます。

 そこでまず源氏の息子・夕霧にそれとなく話を持ちかけます。しかし父親と違って堅物の息子は、かねてより恋焦がれていた雲居の雁を正妻に迎えたばかり。妻一筋で他の女にかまう気などさらさらない。むしろお父さんのほうが色好みだし、なんとかしてくれるんじゃないかしら、などと姫君の乳母は無責任なことを言っています。朱雀帝は「ちょっと浮気っぽいところが気になるなあ」などと言いながら、結局は弟の源氏を頼ります。頼られたほうも、まんざらではなかったみたいで、じゃあ、引き受けましょうと言って、わりと軽い気持ちで入内させちゃいます。(『若菜』上)これが紫の上を憂愁に沈ませ、ひいては彼女の衰弱死につながるわけですから、罪深いといえば罪深い。

 先にも述べたように、紫の上の立場は婚姻的にも社会的にも不安定なものでした。当時は正式に結婚した妻と、それ以外の女性とのあいだには、かなり大きな格差があったようです。紫の上(若紫)は藤壺の姪ということで、源氏が見染めて強引に邸に連れてきた少女ですからね。源氏は18歳、若紫はまだ10歳でした。ほとんどナボコフの『ロリータ』みたいです。それから四年ほど経ち、正妻である葵の上が亡くなってから新枕をかわす。正妻ではないうえに、子どももいない紫の上は、光源氏の庇護ゆえに、正妻に等しい境遇を与えられてきたと言ってもいいでしょう。だから女三の宮の降嫁は、紫の上にとっては降ってわいたような事件だったのです。

 ところで光源氏も正妻の子(嫡子、あるいは継嗣)ではありませんよね。桐壺更衣という桐壺帝が溺愛した側室の子(庶子)です。正妻の子にくらべると、かなりハンディがあります。一方、葵の上は左大臣の娘ですから、家柄的には申し分がない。どうやら彼女には東宮(一の宮)との縁談もあったらしい。そうなっていたら、ゆくゆくは天皇(朱雀帝)の后になっていたはずです。ところが父親の左大臣はぐずぐず話を引き延ばして、結局は源氏にくれてしまった。兄の東宮よりも源氏のほうが帝(桐壺帝)の寵愛が深いから、という理由だったようですが、この選択は現実にはあり得ないという研究者もいます(工藤重矩)。

 ご承知のとおり、当時は藤原氏による摂関政治の時代です。摂関政治というのは、天皇の外戚として太政大臣や右大臣・左大臣といったポストを占めて政治の実権を握ることですよね。紫式部が仕えたのは道長の娘・彰子で、彼女は一条天皇の中宮(后)です。道長には彰子を含めて八人の娘がいたそうですが、このうち正妻・倫子の娘四人はみんな天皇の后として後宮に入っています。つまり摂関政治のもとでは、政権掌握のためにも、また家の繁栄のためにも、外戚関係の確保を第一にめざさなければならないのです。これを自ら放棄した左大臣の振る舞いは、たしかに狂気の沙汰とも言えますが、そこはまあフィクション、光源氏を中心とした恋物語ですからね。

 光源氏が12歳で元服して16歳の葵の上と結婚するっていうのは、現代の感覚からすると早すぎる気もします。でも当時は人生40年から50年ですからね。人の一生はいまの半分か三分の二くらいだった。すると12歳はいまの18~24歳くらいなので、結婚してもおかしくないですよね。葵の上は24~32歳くらい、かなり姉さん女房ってことになります。まあ、こういう単純な計算でいいのかどうかわかりませんが。

 史料などを見ると、そのころ男子12歳で結婚というのはわりと普通だったみたいです。醍醐天皇っているでしょう? 紫式部よりも100年くらい前の人です。この人は13歳で即位して、十代ですでに5人から8人の子どもがいたそうです。少なくとも7人以上の皇后、女御、更衣に取り囲まれていたっていうんだから、もう種馬みたいなもんですよね。ほとんど子どもづくりに明け暮れていたんじゃないかな。

 ちなみに『源氏物語』は醍醐天皇とか朱雀天皇とか村上天皇とか、だいたい紫式部より100年くらい前の時代の出来事を題材にして書かれていると言われています。光源氏のモデルと言われている人はたくさんいますが、そのうちの一人、源高明は醍醐天皇の皇子です。もう一人、有力なモデルとされる源融は、醍醐よりさらに100年ほど前の嵯峨天皇の皇子です。彼らの身に起こったゴシップみたいなものを、紫式部はうまく取り入れているわけですね。

 最後に、光源氏のプレイボーイぶりにも少し触れておきましょう。息子の夕霧と違い、根っからの色好みである彼は、葵の上という正妻がいるのに、7歳も年上の六条の御息所を愛人にしています。しかも愛人宅へ向かう途中で夕顔をナンパしちゃう。もう完全に不良です。きわめつけは自分の実の父親の後妻(藤壺)と姦通しちゃったことです。

 実の母親である桐壷更衣は源氏を生んですぐに亡くなりますから、彼は母親の顔を知らないんですね。そのため亡き母を思慕するのですが、まわりが「藤壺さんは亡くなったあなたのおかあさんにそっくりですよ」なんて吹き込むものだから、幼い源氏はすっかり藤壺に懐いて、やがて男女の恋愛感情に育っていくわけです。二人は何度か密通して、のちの冷泉帝が生まれます。このあたりの展開は完全に不倫小説で、じつにスリリングです。どうぞお楽しみに。

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投稿者: 片山 恭一

ぼくらラボ設立者 小説家。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。2001年4月に出版された「世界の中心で、愛をさけぶ」が若者から圧倒的な支持を得、文芸書としては異例のロングセラーとなる。

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