9 光源氏の運命
帝が溺愛した更衣とのあいだに、第二子として誕生したのが光源氏です。帝にはすでに弘徽殿の女御とのあいだに第一皇子がいます。順当に考えれば、この第一皇子が皇太子(東宮)の座に就くべきなのですが、あれほど寵愛された更衣の子だから油断がなりません。ひょっとして光源氏が皇太子になるのではないかと、弘徽殿の女御の実家である右大臣家の人たちは警戒したことでしょう。また弘徽殿の女御自身も実家の繁栄をかけて入内してきているわけですから、右大臣家の権勢を脅かしかねない光源氏を目の敵にするのも故なきことではなかったわけです。
もし光源氏が皇太子になり、やがて天皇に即位すれば、政界の権力構造は大きく変わることになります。まさに「唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れあしかりけれ」と上達部や上人たちが心配していたことが現実になる。こうした不穏な前兆のもとに物語は幕を開けます。
ところで『源氏物語』という小説は、最初の「桐壷」の巻で物語全体の青写真がほぼ出来上がっています。ちゃんと伏線も張られている。初期設定を見るかぎり、光源氏の境遇はそれほど恵まれたものではありません。むしろ逆境に近いと言っていいくらいです。こういうところは、紫式部って人は小説の勘所がわかっているなあと感じます。
何一つ不自由のない美貌の主人公が、女たちと情事を重ねて浮き名を流すという筋立てでは、面白くもなんともありません。塩でも撒いてやりたくなります。高貴な生まれでありながら困難を抱えた主人公が、自らの手で運命を切り開いくという物語の展開が読者の興味を引き、共感を得るのでしょう。しかも要所、要所で女たちが登場して光源氏を助けます。役割を果たしたあとは、物語の表舞台から静かに去っていく。出家というかたちで退場する(藤壺)こともあれば、物の怪に呪い殺される(葵の上)場合もある。控えめというか、奥ゆかしいわけです。
母方に後見者のいない光源氏が、平安時代の貴族社会で政治的に活躍するためには、どうしても有力者との縁故形成が必要でした。そこで父親の桐壷帝が左大臣に後見を託すというかたちで、左大臣家の娘(葵の上)を后に迎えることになります。こうして後ろ盾のない光源氏が、近衛の大将(21歳)から太政大臣(33歳)へと至るエリートコースを歩みはじめるのです。
引き入れの大臣の、皇女腹にただ一人かしづきたまふ御むすめ、春宮よりも御気色あるを、思しわづらふことありける、この君に奉らむの御心なりけり。内裏にも、御気色賜はらせたまへければ、「さらば、このをりの後見なかめるを、添臥にも」と、もよほさせたまひければ、さ思したり。
引用文に「皇女腹にただ一人かしづきたまふ御むすめ」とあるのは葵の上のことです。皇女である奥方とのあいだに生まれた一人きりの娘ということですよね。これは葵の上の母親が、桐壷帝の妹であることをさしているわけです。左大臣を父とし、帝の妹を母として生まれた葵の上ですから、光源氏が縁故をなす相手としては申し分ありません。
一方の左大臣家にとって、姫君は天皇家との確固とした外戚関係を築くための切り札だったはずです。ところが「東宮の結婚相手にどうか」というありがたい話を、左大臣は煮え切らない態度をとって返事を引き延ばしています。左大臣の本心は「娘を光源氏の妻にしたい」ということだったようです。
このときの葵の上を所望された東宮は、桐壷帝と弘徽殿の女御の第一皇子、のちの朱雀帝ですから、左大臣の態度は謎といえば謎です。前にも触れたように、当時の権勢家としてはあり得ない選択だという研究者もいます。左大臣は桐壷帝によほど恩義でもあったんでしょうかね。二人の結婚には当然、光源氏に強い後ろ盾をつけたいという桐壷帝の意向が働いていたはずですからね。作者の紫式部は納得できる説明をしていないので、ここはやはり物語を面白くするための仮構と考えるのが穏当かもしれません。
こうして光源氏の元服に伴い、葵の上が妻になることが決まります。桐壷帝の台詞のなかに「添臥(そいぶし)」という言葉が出てきます。当時の風習では、元服をして一人前になると、年長の女性が身のまわりの世話をすることになっていたようです。これが「添臥」で、正式に「妻」となることを意味します。「元服後の後見役もいないようだから、左大臣家の姫君に添臥をさせて妻にしてはどうだろう」と桐壷帝がそれとなく促しているわけです。ときに光源氏は12歳(数え年で)、葵の上は16歳でした。あまり意味のない比較ではありますが、現在の年齢でいうと小学6年生と高校1年生が夫婦になったわけですよね。いやはや。