『源氏物語』には物の怪がたくさん出てきます。「物の怪」というと、いまの若い人たちの多くは宮崎駿のアニメを思い浮かべるかもしれません。でもあの映画でモノノケの正体ははっきり明かされていませんよね。
 古い時代に「モノ」は神や霊をさしていたようです。『日本書紀』で「悉くに万物(よろずのもの)を生みたまふ」という場合の「物」は神を意味しました。ただし『古事記』などを見ると、三輪山の祭神「大物主大神」などは疫病の流行をもたらす疫神の性質をもっていたらしく、どちらかというと好ましくない神さまというか、負の力をもつ神や霊をさすことも多かったようです(小山聡子『もののけの日本史』)。
 「鬼」という字も面白い。普通は「オニ」と読みますが、「九鬼文書(くかみもんじょ)」のように「カミ」と訓む場合もあります。「鬼」に「云」をつけると「魂」になります。「云」は「ウン」と呼んで雲の意味があります。雲のようにふわふわ大気中を漂うものが「魂」なのでしょう。中国では「魂魄」という言い方もありますね。「魂」は霊魂、「魄」は肉体、「白」だから骨でしょうか。お墓のなかに入っているのはこっち。一方で、霊魂みたいなものも、ぼくたちはなんとなく信じていますよね。やっぱり中国の古い考え方が残っているのかもしれません。
 霊魂のもとになっている「鬼」ですから、一概に悪いものではない。ご先祖の霊は子孫を守護してくれるし、天皇など高位の人の霊は神に近い扱いだったのでしょう。このように古代の「オニ」は畏怖すべきものだったようです。「鬼」を「モノ」と訓むこともありました。『万葉集』にはつぎのような歌が見えます。

朝寝髪我れは梳らじうるはしき君が手枕触れてしものを(第11巻・2578)

 この歌の「触れてしものを」は原文では「触義之鬼尾」で、「鬼」を「モノ」と訓んでいます。『万葉集』に収められた恋をテーマとする歌では、しばしば「鬼」を「モノ」と訓ませています。当時の人々は、恋には外界からの不思議な力が介入していると考えたのかもしれません。この場合の「鬼」は一種の「stranger」ですね。善悪という人間的な基準ではかならずしもとらえていなかったのでしょう。また「隠(おぬ)」が訛ったものという説も多くみられます。こちらは「隠れたもの」や「目に見えないもの」という意味になりますね。先の『万葉集』の歌にも通じます。
 こうして見ると、古代において「モノ」と「オニ」と「カミ」はあまり明確に区別されていなかったようです。いずれも目に見えないもの、中空を浮遊したり、天上に昇ったり、地上にとどまらないものだったようです。

 では「モノノケ」はどうでしょう? 少なくとも『源氏物語』の時代になると、物の怪はかなり明確な特徴をもってきます。それは物の怪が病気や死と結びつけられたことです。だから物の怪が現れるのは、たいてい病人が重篤な状態に陥ったときや、女君の出産の場面です。
 この時代の歴史的な事件を集めた『大鏡』には、藤原兼家(道長の父)が病気療養のために出かけた寺で、物の怪に取り憑かれて死んだという記述が見られます。また同じ時代の歴史物語である『栄花物語』には、道長の娘である嬉子(後朱雀天皇の后)が出産後、物の怪に取り憑かれて死んだという下りがあります。兼家の逸話は夕顔が物の怪に襲われる場面にそっくりですし、嬉子の臨終は葵の上のそれを想わせます。紫式部がこれらのエピソードを巧みに物語に取り入れたことがうかがえます。
 紫式部が仕えた彰子(一条天皇の皇后)の父・藤原道長は病気がちの人だったらしく、患いつくたびに大がかりや修法や加持、読経などが行われたという記録が残っています。そうやって病気の原因を制圧しようとしたわけですね。これを「調伏(ちょうぶく)」といいます。怨霊などをやっつけることです。いまならさしずめ抗がん剤やワクチン接種といったところでしょうか。
 道長といえばときの最高権力者、摂関政治のなかで天皇の外戚として権力の頂点に昇り詰めた人ですよね。そんな人が物の怪などに怯えていたのはおかしいと思うかもしれませんが、ぼくたちが癌や新型コロナ・ウイルスを恐れるのと同じだと考えれば、名前が変わっただけで医学も科学も中身はそんなに変わっていないということかもしれません。
 それはともかく、道長に取り憑いた物の怪のほとんどは、彼が陰謀などで蹴落としてきた政敵だったようです。政敵といっても、摂関家のなかでの勢力争いですから、たいてい親とか兄弟とかいった身内になります。だから余計に恨みを意識し、うしろめたさをおぼえずにはいられなかったのでしょう。摂関期古記録の一つ『小右記』には、かなり詳細な記録も残っているそうです。

 では、道長の政敵とは具体的にどういう人たちだったのでしょう? 彼の父兼家は、もともと藤原摂関家の三男に生まれながら、兄兼家との確執や、同族の小野宮流との後宮争い、策略による花山天皇の廃位などを経て、摂関家の嫡流としての地位を確立したといわれる人です。その子道長もやはり三男です。だから最初に関白になったのは長男の道隆です。この人は病気で亡くなる間際、自分の後任に息子伊周(これちか)を推します。しかし容れられず、道隆の弟道兼が関白に就任します。もともと病気がちだった道兼は、なんと就任後わずか七日で無念の死を遂げます。伊周としては、つぎは自分だと思ったことでしょうが、叔父道長に阻まれてしまいます。こうした経緯から、道長は伊周のみならず、兄道隆や道兼にもうしろめたさを感じていたと思われます。
 清少納言が女房として仕えた定子は、道隆の娘で一条天皇の皇后でした。ところが道長は、自分の娘彰子に天皇の子を産ませたいがために、彼女を中宮に据えます。こうして一条天皇は同時期に二人の后(皇后と中宮)をもつことになったのです。この状況は「一帝二后」と呼ばれ異例のことでした。誰の目にも道長の横暴は明らかだったでしょう。当然、道長本人も定子とその息子である敦康親王が自分に抱いているだろう恨みを意識していたはずです。こうして道長の罪障は取り返しのつかないものになってしまいました。

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投稿者: 片山 恭一

ぼくらラボ設立者 小説家。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。2001年4月に出版された「世界の中心で、愛をさけぶ」が若者から圧倒的な支持を得、文芸書としては異例のロングセラーとなる。

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