4 『源氏物語』の主題ってなんだろう?
いくつもの主題が重層していて、いろんな読み方ができるというのも『源氏物語』の魅力ですね。たとえば政治小説的な読み方をすればどうでしょう?ご承知のとおり、物語の背景には藤原氏による階位の独占、いわゆる「摂関政治」があります。これは数十人の貴人たちによる閉じられた世界であり、そこでは結婚ひとつをとってみても、天皇の外戚となって政治の実権を握ろうとする政治的な駆け引きがある。
光源氏について言えば、左大臣の娘である葵の上との結婚によって、近衛の中将、大将と宮廷内で順調に出世していたのに、朧月夜との密会が露見したことから、弘徽殿の大后とその父右大臣によって政界から追放され、須磨・明石に退居、やがて帰京して政権に復帰、最後は准太政天皇への昇進という生涯をたどります。
すぐれた風俗小説とも言えるでしょう。先にも触れたように、『源氏物語』のなかで語られるエピソードには、『大鏡』や『栄花物語』などに記された、源融、藤原兼家、花山天皇、藤原頼道といった、実在の人物の身に起こった出来事と照応するものが多いそうです。最初の読者であった宮中に仕える女房たちは、物語を読んで「あっ、これはあの人のことだ」とすぐにわかったでしょうね。そういう女性週刊誌的なところが多分にあったと思います。これが当時から『源氏物語』が多くの読者を得た理由の一つかもしれません。高度で繊細な世界が描かれているのですが、その元ネタは意外と通俗的なものだったりする。
いちばん際立った印象としていえば、やはり「恋愛小説」ということになるかと思います。とても隠微で繊細な恋愛小説です。とくに第一部、「桐壺」から「槿」あたりまでは、光源氏の女性遍歴が物語の経糸になります。いわゆる「色好み」の物語ですね。その背後には亡き母・桐壺更衣への恋しさがあり、それが継母にあたる藤壺への恋慕となっていくわけですから、失われた母性をめぐる物語と言ってもいいでしょう。
源氏がさまざまな女性に恋心を抱くのも、実母から得られなかった母性を求める代償行為のようにも受け取れます。その主旋律をなすのは、藤壺にたいする遂げられぬ恋慕です。だから光源氏を主人公として物語が進むあいだは、この二人のエロスの物語と言ってもいいでしょうね。けっして表沙汰にはできない、秘められた恋の物語です。
光源氏の子ども(実子)は、公式には二人とされています。一人は正妻である葵の上とのあいだに生まれた夕霧、もう一人は明石蟄居中に明石の御方とのあいだに生まれた明石の姫君です。さらに藤壺中宮とのあいだに不義の子がいます。表向きは実父・桐壺帝と藤壺とのあいだの子ということになっている、のちの冷泉帝ですが、実の父は光源氏です。藤壺にしてみれば、自らの過失によって源氏の子を帝の子として身ごもってしまった。これが彼女の生涯に罪障として付きまとい、夫である桐壺帝が亡くなったあと、再び源氏に言い寄られたのを機に出家を決意させます。その後、37歳で崩御(「薄雲」)。最期に彼女は何を思ったでしょう?
藤壺との恋が物語の影の部分だとすれば、若紫(紫の上)との関係は光の部分をなしています。源氏が若紫を見出すのは18歳のとき。病気療養のため北山に来ていたときでした。その登場の仕方がかわいい。当時の若紫は10歳。有名なシーンです。
「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠の中に籠めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり。
どうです? 「雀の子をいぬき(召使の女童の名前)が逃がしちゃった。ふせごのなかに入れておいたのに」と言って、とても残念がっている。いかにも明るく、無邪気な幼女って感じですよね。彼女が藤壺の姪だと知った源氏は、強引に邸に引き取ってしまいます。若紫との関係は、最初から藤壺との禁断の恋を代償するものでもあったわけです。藤壺への恋慕は、亡き母・桐壺更衣の失われた母性から流れ下ってきているのですから、ここでも光源氏の行動は、失われた母性を求めるものだったことになります。
このことが『源氏物語』に通底する独特の情感を生み出していると思います。どういうことかというと、藤壺との密通も、若紫にたいする振る舞いも、たんなる好色、たんなる女好きでないことが、事情を知っている読者には感得されるのです。そこには失われた母親への思慕を断ち切ることのできない一人の男がいます。だから源氏の藤壺への恋慕は、どこか近親相姦的に感じられます。若紫にたいする幼女愛的な欲動は、その裏返しとみなすことができるかもしれません。
藤壺自身は、源氏の心情を理解しつつも、彼の想いを受け止めることができません。むしろ源氏に眷恋されるわが身を厭わしく思っている。その苦悩の果ての出家であり、死であったとも言えそうです。源氏にとって藤壺への恋慕は、亡母の面影を追い求める宿命的なものだったように、藤壺の苦悩も本人の意思ではどうにもできないものでした。
光源氏が生涯にわたっていちばん長く過ごし、心を通わせた相手である紫の上ですが、前にも述べたように、彼女を正妻とするかどうかは微妙なところです。制度的にいえば、光源氏の正妻はあくまでも葵の上と女三の宮、正式にはこの二人だけです。ただ物語のなかでは「紫の上」と呼ばれていて、「上」は正妻(北の方)に付ける敬称です。だから婚姻関係として正妻ではないけれど、実質的に北の方の扱いを受けていたということだと思います。親の後ろ盾もなかった若紫が、源氏に引き取られ、少女から女となり、彼の庇護のもと実質的な妻として正妻に等しい社会的な地位をつかむ。そういう意味では、たしかに紫の上は光の当たる場所を歩んでいきます。
そんな紫の上にも憂愁は忍び寄る。その大きな原因は、一夫多妻(多妾)制という当時の風習にあったと思います。葵の上にしても紫の上にしても、夫が自分以外の女性とかかわりをもち、その女性に子どもが生まれることを、習俗として受け入れるしかなかった。そうした女性たちの悲哀、苦しみ、葛藤も作品全体の大きなテーマになっています。夕顔や葵の上を取り殺す物の怪(六条の御息所の生霊とされる)も、女たちの悲哀を体現していると言えるかもしれません。次回は、この「物の怪」について見ていきましょう。