7 桐壺更衣の宿命
さて、ここからは物語の内容を順に追っていきましょう。まず『桐壷』の冒頭で上達部や上人といった官位の高い人たちが騒いでいます。「唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れあしかりけれ」。「かかる事の起こり」というのは、桐壷帝が「いとやむごとなき際にはあらぬ(たいした家柄でもない)」更衣を寵愛していることです。どうして天皇が高貴な家柄の出身ではない女を寵愛することが、世の中の乱れる原因になるのでしょう?
紫式部が仕えた彰子はときの最高権力者、藤原道長の娘です。つまり『源氏物語』が執筆された時代は摂関政治の最盛期にあたります。この時代の天皇にとって結婚を含めて女性との関係は公務であり、政局を安定させるための大切な政治的行為でした。したがって帝は、中宮・女御・更衣といった身分に応じて、女たちを愛さなければなりません。
公務としての第一の仕事は、もちろん跡継ぎを残すことです。しかしたくさんつくればいいというものではない。皇子が即位して天皇になったとき円滑に政治が執り行えるように、有力な貴族を後見にもつ子どもをつくらなければならなし、したがって子どもの母親は、官位でいえば左大臣や右大臣といった上達部の娘ということになります。
高貴な家柄の出身ではないとされる桐壷更衣ですが、父親は大納言まで務めた人ですから、そんなに卑しい身分ではありません。母親も由緒ある家柄の生まれで教養もあるようです。ただ父はすでに亡くなっており、更衣には有力な後見人がいません。そのあたりが「いとやむごとなき際にはあらぬ」にあたるらしいのです。つまり桐壷帝が更衣を偏愛することは、やっちゃいけないことであり、政局の安定という見地からも憂慮すべきことだったのです。
天皇は「公務」を果たすために、普段の住居である清涼殿から弘徽殿、淑景舎(桐壷)、飛香舎(藤壺)といった後宮へ渡っていくわけですが、当時の内裏や後宮というのはプライバシーがあってないようなものでした。平安時代の貴族たちの邸宅は、いわゆる寝殿造りというやつです。絵巻などにもよく描かれているから、ご覧になった方も多いでしょう。女房たちが与えられる局といっても、御簾や壁代と呼ばれる薄いカーテン、せいぜい襖で仕切った程度のもので、話し声や物音はみんな聞こえてしまいます。
困ったことに、桐壷更衣が暮らす淑景舎は清涼殿からはいちばん遠い北東の隅にありました。帝が更衣のもとへ通っていくあいだ、多くの女御や更衣たちが暮らす殿舎の前を通っていくことになります。また夜になって帝からお呼びがかかれば、聞き耳を立てる女たちの前を通っていかなければならない。そこで更衣はさまざまな嫌がらせを受けます。
そのあたりのことを作者は、「御局は桐壺なり。あまたの御方々を過ぎさせたまひて、隙なき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり」と簡潔に書いています。素通りされた女御、更衣たちの心中は穏やかではないということでしょう。どのように穏やかでなかったのか? 「人の御心を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり(女御や更衣たちがやきもきするのも無理もない)」というくだりから、当時の読者は、帝に無視される女たちの嫉妬や恨みを読みとることができたのでしょう。
しかしぼくたちにはそこまでの読解力はないので、現代語訳を読んでみることにしましょう。以下にあげるのは円地文子さんによるものです。
御所でのこの方の賜っているお住居は桐壺であった。帝のお常御殿である清涼殿からは遠く離れた東北の隅に当る。多くの女御更衣の住まっていられる部屋々々の前を素通りなさって、帝が桐壺にばかり通っていらっしゃることが終始のようであってみれば、その道筋の御簾の陰に凝っと身をひそめ、息を殺している女人たちの眠っているような細い眼の芯に眸がどんなに妖しく玉虫色に燃え立っていたか。ふくらんだ御簾竹の黄色い小暗さを押して葡萄染や蘇芳、萌黄などの色濃い織物が、長い黒髪にまつわられ、涙に滲んでどんなに気味悪くうごめいていたか。思えば無理もないことと言わねばならぬ。
この円地訳はすごいですねえ。ぼくたちが読むと素っ気ないくらいの原文から、女たちのどろどろした情念を「これでもか!」とばかりに引き出してみせます。「眠っているような細い眼の芯に眸がどんなに妖しく玉虫色に燃え立っていたか」とか「涙に滲んでどんなに気味悪くうごめいていたか」とか、ほとんど創作です。ここまで主観に徹した現代語訳は円地さんのもの以外に見当たりません。こういったところも、何種類かの現代語訳を読む楽しみの一つです。